おとなの妄想くらぶ

カテゴリ: 下宿&アパート

binibon_momoko_00

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前回と前々回に引き続き、またしても福山市花園町のアパートのお話です。

話のメインは、アム〇〇〇に勧誘された話なのですが、

結論から言いますと、台所洗剤をひとつだけ買いました。

水で薄めて使用するやつで、使ってみたところ、いい洗剤だと思ったのを記憶しています。

少し自分で使って、残りは高知の実家に持って帰り、自宅で両親が使いました。

同席した私の友人の、ヨウイチも同じものを買いました。

買った理由は、アム〇〇〇の勧誘を受け入れたからでも、
洗剤がいかに素晴らしいかの説明に納得したからでもなくて、

単に付き合いで、はやく話を終わらせたかったためです。

記憶に残っている範囲で、そのときのことを詳しく書いていきたいと思います。

住人のマエダさんは、コップをふたつ用意しました。

フタがあるタイプの無色透明のコップで、プラスチック製だと記憶しています。


もしかしたら、洗剤の説明にのみ使われるものなのかもしれません。

ふたつのコップには水が入れられて、

そのうえで、
ひとつには、スーパーとかで売られている普通の台所洗剤が入れられ、
もうひとつには、アム〇〇〇の洗剤が入れられました。

そしてマエダさんが、ふたつを手で振ります。

当然、洗剤と水とが混じり合うわけですが、

市販の台所洗剤は泡が多く発生して、コップの半分以上が泡でいっぱいになりました。

一方のアム〇〇〇洗剤は、ほとんど泡が立たない状態でした。

私は、ふたつの違いをたずねられ、そのことを言いますと、

マエダさんが、「さすが〇〇大生、その通り」みたいなことを言われて、
それが未だに印象に残っています。

誰が見ても一目瞭然のことなのに、
それがわかったことを、さも凄いみたいな言われ方をしたので複雑な気持ちでした。

それはさておき、マエダさんは泡の違いに関して以下のような説明をしました。

「市販の台所洗剤は多量の泡が立ち、
いかにも洗浄力があるかのように見せているが、泡が立っているだけで実際には洗浄力はない。

一方、アム〇〇〇の洗剤は泡で汚れを落とすわけではなく、洗剤そのもので落とすから、
泡が立たないし、泡を立てる必要もない。」

そんな感じの話だったように記憶しています。

また、アム〇〇〇洗剤は食器だけでなく、
洗濯洗剤としても使用できるという話も聞かされました。

また、そのとき聞かされたのか、後で自分で調べたのかは覚えていませんが、
アム〇〇〇は、洗剤だけでなく、鍋やそのほかいろいろなものを売っていることも知りました。

マエダさんの部屋にあった、大量の段ボールには、これから販売する予定の、
洗剤や鍋の類いのものが入っていたというわけです。

さらには、アム〇〇〇に本格的に取り組む決心をして大学を中退し、
今は本業としてやっているとのことでした。

今のところ調子がいいようで、スポーツカーを買ったというような話もしており、
実際に、アパート下の駐車場にはマエダさん所有のカッコいい車が停まっていました。

マエダさんを含む彼ら3人と、私とは年齢が近いこともありまして、
アム〇〇〇以外の話もしました。

最低でも3時間くらいは、話をしたように記憶しています。

ただし、アム〇〇〇以外で、覚えているのは金八先生の話だけです。

マエダさんは金八先生にとても否定的で、物語自体がつまらないという話をしていました。

しかし私は、中学高校時代に、金八先生を面白いと思いながら見ていましたから、

マエダさんに、「(金八先生を見て)感動しませんでしたか?」という、
どうでもいいような質問を投げたのですが、

そのとき、マエダさんの恋人のキクチさんが、「した、した」と、
突如沈黙を破り話に加わってきたので、私は仰天したわけです。

そのことだけを強烈に覚えているだけで、
金八先生の内容について、具体的にどんな話をしたのかは記憶にありません。

3時間以上の話のあと、私とヨウイチはそれぞれアム〇〇〇洗剤を手にして、
私の部屋に戻ったわけですが、非常に疲れました。

マエダさんは隣人だし、何だかめんどくさいことになりそうな気が強かったことに対する、
嫌な気持ちも大きかったです。

しかし、結果的には、私が福山市から引っ越す半年間の間に、
マエダさんたちと話をしたのはこのときだけでした。

アム〇〇〇が忙しいのか、マエダさんたちがほとんどアパートにいなかったということも、
その原因のひとつだったのかもしれません。

どうでもいい昔話がとても長くなりましたので、このへんで終わります。

実はもうひとりの住人のほうが、私に強烈な印象を残す出来事があり、
トラブルめいたことにも発展するのですが、

その話はいずれ機会を見て書きたいと思います。

ちなみにトップ画像は、ビニ本「momoko」(セントラルプロ)からのものです。

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SweeT MeMoRY_11

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前回に引き続き、またしても福山市花園町のアパートのお話です。

私は、当時、福山のアパートに配達された、
友人からのハガキや年賀状などをいまだに持っておりまして、それによると、
私の部屋は202号となっています。

不動産契約書などの類いは、もうすでに捨てていてありませんから、
そのハガキや年賀状で、正確な住所を改めて知ることができました。

ところで、当時は、携帯電話などありませんし、私のアパートに電話はありません。

広島市の下宿に住んでいたときは、私に用がある場合は、
大家さんの自宅の固定電話に電話を掛けてもらって、呼び出してもらってました。

これは何も珍しいことではなく、ほとんどの学生がそうしていました。

というのも、固定電話を開通するには、電話の権利が必要でして、
その権利が高価で7~8万円もしたからです。

携帯電話が普及した現在では、固定電話の権利は無価値になりました。

それはさておき、

大家さんの電話を貸してもらっているというわけでして、
ただ単にヒマだからという理由で電話を掛けてくる知人はいません。両親も然りです。

緊急性の比較的高い用事があるときにだけ電話を使うというのが、
世の中の普通の感覚でした。

アパートの話に戻りますと、

外階段にいちばん近いところが201号、トイレや洗濯機などが置かれている共有スペースを挟んで、
私の部屋が202号、隣の203号は空き部屋で、その隣が204号だったと思われます。

そして今回は、201号の住人について書きたいと思います。

私は、引っ越したときに、201号と204号を訪ねて挨拶をしました。

204号の住人は、比較的在宅していることが多いようで、すぐに会えましたが、
201号の住人は不在が多く、なかなか挨拶できないでいたように記憶しています。

古いアパートですから、住人が廊下を歩いたり、
部屋の扉を開ける音などはほかの住人にも聞こえます

その日、私は数少ない友人のひとりがアパートに来ていて、ふたりで部屋にいました。
現在は近畿地方の某県で市役所に勤めているヨウイチ(仮名)です。

ヨウイチは、広島市の下宿にもよく来ていた仲の良い友人でして、
今でも年賀状のやり取りをしていますし、お互いかなり離れたところに住んでいるのですが、
数年にいちど会うくらいの親しい関係です。

たしか、ヨウイチと部屋にいるときに、201号に人が入る音を聞きつけ、
引っ越しの挨拶に行ったような気がします。

私は学生で社会経験もありませんので、ただ挨拶しただけで、
お菓子とか粗品の類いを渡すなどという気のきいたことは思いも付きませんでした。

201号の住人は、私と同じくらいの年齢の若い男性でした。
私は、挨拶して部屋に戻るつもりでしたが、呼び止められて部屋のなかに招かれました。

6畳一間の部屋なので、部屋のなかはすべて見渡せるのですが、
ほかに、やはり若い男性と、若い女性がいました。合計3人です。

人見知りで警戒心が強い私は躊躇しましたが、断る理由もなく招かれることにしました。

いちど部屋に戻り、ヨウイチとふたりで201号の部屋に入ったわけです。

古いアパートだと、建物に入るときに靴を脱ぎ、
共有廊下および自室は土足で歩かないタイプのアパートがありますが、

この福山市花園町のアパートは、自室に入るときにはじめて靴を脱ぐタイプ、
いわゆる貸家式と呼ばれるアパートでした。

そういうわけで、扉を開けていきなり部屋になってはいますが、
扉と部屋の間に、靴を脱ぐ土間のようなスペースがありました。

また話が脱線しました。201号の住人の話に戻ります。

私とヨウイチは、201号にいた3人に招かれて雑談することになるのですが、

今後の話をわかりやすくするために、仮名を付けます。

201号の住人、つまり部屋を借りている人間をマエダ(仮名)さん、

そして若い女性をキクチ(仮名)さん。もうひとりの若い男性をヤスハラ(仮名)さんとします。

マエダさんとキクチさんは付き合っており恋人同士の関係で、
彼らの友人がヤスハラさんです。

さらにヤスハラさんは、このアパートの大家の息子でした。

そしてマエダさんは、
いままさに私が通っている大学の先輩だということもわかりましたが、
すでに退学しているとのことでした。

なぜ退学したのかは、この後の話と関連するのですが、

私はずっと、なにか不安な直感がずっと働いておりまして、
話を切り上げられないものかと思っていました。

一方、ヨウイチは普段から飄々とした人物でして、自然体という雰囲気で座っています。

ちなみに、部屋は殺風景な感じで生活臭さがありませんでした。
段ボールがいくつも重ねて置かれているのが気になったのと、
照明が裸電球だったことも気になりました。

部屋が黄色がかり暗かったため、話をしながらも、
蛍光灯に買えた方がいいのではないかと思っていました。

そして本題なのですが、マエダさんがおもむろに洗剤を出してきて説明を始めました。

なんとなく察した方もいるかもしれませんが、マエダさんはアム〇〇〇をやっていました。

伏字にしましたが、アム〇〇〇とは、ウィキペディアの記述を借りると、
“家庭日用品等を主に連鎖販売取引で販売する企業”です。

さらに、私の「
アム〇〇〇をやっていました」という記述は文法的には間違っているのですが、
一般的にはよく使われる言い方です。

マエダさんは、品物の販売と同時に会員を広げる活動をしていました。
洗剤はもちろんアム〇〇〇の商品です。

そして、私とヨウイチに対して、勧誘が始まるのですが、
その顛末はまた次回以降に書きたいと思います。

トップ画像は、以前に取り上げました、
ビニ本「SweeT MeMoRY スィートメモリー」(飛鳥書房)からのものです。

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イリュウジョン_11

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今回は私の思い出話です。

またしてもどうでもいい無意味な内容です。

私は、1987年(昭和62年)10月から、1988年(昭和63年)03月までの間、
広島県福山市に住んでいました。わずか半年間でした。

広島市から引っ越して福山市に来た私は、その半年後に、
東広島市にまた引っ越すことになるのですが、

これはあらかじめ決まっていたことで、ちょうど学校の移転と重なった結果です。

ですので、福山市のアパートに入居する際も、半年間限定ということで契約しました。

普通は、不動産屋にいくつか候補を上げてもらって、
それらを案内してもらい、そのなかから決めるという流れだと思いますが、

福山市のアパートに関しては、半年のみだし、学校からそう遠くなければどこでもいいと思い、
ひとつだけをピックアップしてもらい、そこに案内してもらってすぐに決めました。

花園町2丁目にありました。
たしか、1階は会社で、2階部分がアパートだったように記憶しています。

道路に面した外階段を上がるとアパートの廊下になっていて、
向って右側に、部屋がありました。

全部で4部屋でした。

階段を上がってすぐのところに部屋がひとつあり、

トイレと、共用の洗濯機が置かれている、ちょっとしたスペースがあり、
そのスペースの隣が私の部屋でした。

私の部屋の隣にもうひとつ部屋があり、その隣にまたもうひとつ部屋がありました。

6畳台所付きで風呂無し、家賃は1万円だったように記憶しています。

部屋の一角に流し台が付いており、いわゆるワンルームタイプなのですが、
“ワンルーム”という名称から連想されるような洋風のアパートではなく、

古臭い感じのアパートで、部屋は当然和室です。

広島市南区翠の下宿は4畳半でしたので、6畳の部屋はとても広く思えました。

学校へは歩いても5分とかからない場所です。
私は自転車で通っていました。

私の他に2部屋が埋まってまして、私の隣が空き部屋になっていました。

この2部屋の住人がかなり濃厚な人物でして、

その話を書こうと思っているのですが、かなり長くなりそうなので、

今回は、福山市での私の生活スタイルについて少し書くだけにします。

ところで、私以外の同級生は、教養課程を終えたタイミングで福山市に移動したのですが、

私は、あまり成績が良くありませんでしたので単位をいくつも落とし、
いまだ教養課程を取得する必要がありました。

なので、教養課程を履修するために、
ほかの学部に交じって授業を受けなくてはならなかったのですが、

それが、月曜日1時限目の『経済学Ⅱ』でした。

私は理系の学部でして、経済学には全く興味なかったのですが仕方ありません。

話が脱線しました。

私は学校が終わると、
『セルコ』という地元のスーパーマーケットで買物してアパートに帰り、自炊していました。

『セルコ』はチェーン店で、福山市に何店舗かありましたが、
私が行くところはいつも決まっていました。

理由は、アパートから近いことと、レジに美人なお姉さんがいたからです。

ただし『セルコ』の場所がどこだったのかまでは正確に覚えていません。


ちなみに、つくるのは毎日同じメニューで野菜炒めでした。

『セルコ』は名前を変えて今でもまだ営業しているようです。


それから夕食を食べた後、風呂屋に行きます。
この風呂屋もほぼ毎日行っていましたが、正確な場所を覚えていません。

福山市の銭湯をネットで調べると、“だいご湯”というのがヒットしました。
かなり年季の入った古い風呂屋です。

アパートからそこそこ距離があったことだけは記憶にありまして、
もしかしたら、“だいご湯”だったかなと思いますが、正確には思い出すことができません。

風呂に入ると、アパートに帰り、
その後、部屋でレコードを聴いたりテレビを見たり、エロ本を見たりして過ごしていましたが、

2日にいちどくらいの頻度で、深夜もやっている書店に行ったり、
レンタルビデオ屋に行ったりしました。

どうでもいい話が続きましたので、このへんで終わります。

住人の話は、また次回以降で書きたいと思います。

ところで、トップ画像は、裏本「イリュウジョン」から、
ムチムチお姉さん・中川友美の放尿シーンです。

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くるみ_13

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前回に引き続き、かつて住んでいた下宿の住人の話です。

またしても、どうでもいいような思い出話なのですが、
今回は、私の真下に住んでいた文学部の学生の話です。

名前を仮にヤマダ(さん仮名)としておきます。

私はこの下宿に、2年生の9月まで住んでいて、
その後、同じ広島県の福山市に引っ越すのですが、

ヤマダさんは、私が引っ越すときもまだ住んでおりましたので、
私が入学したときには3年生でなかったかと思います。

下宿の住人は全員が同じ学校の学生ですし、
トイレは共同で使いますから、入居したときに全員に挨拶に行きました。

私と同じく新入生のミヤウチ(仮名)も交えて、
ヤマダさんの部屋で、挨拶がてら、ちょっとした雑談をした記憶があります。

ちなみに下宿に風呂はなく、風呂屋を利用していました。

私が下宿に住み始めたのは4月入学直前の、3月終わりだったと思います。

細かい日程は覚えていませんが、通常なら4月8日に入学式があります。

そしてこの4月8日ですが、後述する理由から月日が特定されるのですが、

私が下宿に帰り、部屋に入ろうとした瞬間に、
ヤマダさんが1階からものすごい勢いで階段を上がってきて、私の部屋に来て一言。
「岡田有希子が死んだ!」

このときの私の驚きをどう説明すればいいでしょうか。

いまだに記憶に残ってますから、衝撃的なことだったのは間違いないのですが、

岡田有希子が死んだことよりも、ヤマダさんが大慌てで私の部屋に駆け込み、
岡田有希子が死んだニュースを伝えてきたことに驚きました。

ちなみに、岡田有希子とは1980年代を代表する女性アイドル歌手です。
アイドル全盛の1984年にデビューしています。

私はもちろん知っていましたし、当時の若者全員が存在は知っていたはずです。

私は、ヤマダさんから教えてもらった後に、
岡田有希子が自殺したというニュースの詳細にも触れ、

その後、
10代の女子たちが後追い自殺することが社会問題にも発展するのですが、

それはさておき、

ヤマダさんの勢いに押されて、自身のショックがかき消されたとでもいうのでしょうか、
ヤマダさんは、そこまで岡田有希子に思い入れがあったのかと驚いてしまいました。

加えて、岡田有希子の自殺は4月8日でしたから、
私が下宿に住み始めて一週間ほどしか経っていません。

つまり、
同じ学校の先輩後輩とはいえ、ヤマダさんと私は、そこまで密な関係性ではありません。
わずか一週間前に初めて会ったわけですから。

ところで、これが逆だったとして、私が岡田有希子死亡のニュースを、
ヤマダさんの部屋に行ってまで伝えるだろうかと考えますと、

私のパーソナリティーの問題も多分にあるとは思いますが、
おそらくそんなことはしないだろうと思います。

ちなみにヤマダさんですが、一般的にはおとなしめなタイプで、
グイグイくるような感じではありませんでしたし、

下宿に住んでいたときには、
例えば、いっしょに飲みに行ったり、食事したり、遊びに行ったりとかは全くなく、
同じところに住んでいる住人という以上の関係性になったことはありませんでした。

現在も、岡田有希子の話が、テレビやラジオなどのメディアで取り上げられることがありますが、
それに私が触れたときは、もれなくこのヤマダ先輩が思い出として付いてきます。

それだけ衝撃的な出来事だったと言えなくもないということです。

岡田有希子の一件の後、
ヤマダさんと情報を交換するような会話したことはなかったように記憶しています。


そのことが余計に、
私の中で、この出来事の記憶を際立たせる働きをしたこともあると思います。

ところでトップ画像は、
またしても、ビニ本「KURUMI くるみ」(コンパル出版)からのものです。

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くるみ_45

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今回は、私がかつて住んでいた下宿の住人の話です。

裏本やビニ本とは無関係で、単なる私の思い出話です。

私の下宿は、大家さんの敷地のなかにありました。
そのため大家さんの自宅一軒家と共通の門を抜けて、奥にある下宿に入ります。

GoogleMapで確認すると、現在も、大家さんの自宅は存在していましたし、
下宿の建物もまだ存在しているようでした。

ただし、現在も下宿をやっているのかどうかは不明です。

さて、この下宿ですが、1階に2部屋、2階に3部屋ありまして、
私を含めて1階に2人、2階に2人、合計4人の学生が住んでいました。

全員が同じ学校の学生です。

私は2階に住んでいたのですが、私の部屋の隣が空き部屋で、
階段を挟んで、その隣に中部地方から来ている学生が住んでいました。

私と同じ年の入学なので、同級生になります。工学部の学生でした。

名前を仮にミヤウチ(仮名)としておきます。

ところで、下宿の近くにジャスコがありました。現在もイオンとして営業しています。
私は外食が基本だったので、ジャスコで食材を買った記憶がほとんどないのですが、

ミヤウチはジャスコで食材を買い、下宿で調理していたように記憶しています。

あるとき、彼がジャスコのカゴを持ったまま下宿に帰ってきました。
中には、その日買った食材が入っています。

店内で使い、レジで精算する際に返却する買物カゴです。

レジで精算を済ませたあと、そのままの状態で帰ってきたようです。

当然、そのカゴはどうしたという話になりましたが、

「『あれ? お客さん、ちょっと…』とか言われたけど、
『あ、いや、ん~』と言ってそのまま持って帰ってきたがや…」

ミヤウチは少し酔っぱらっているようでした。

そして私に、「これ使う?」と言ってカゴをくれました。
30年前の出来事です。

そのカゴは実はまだ私の家にあります。なぜか捨てられませんでした。

私は、これまで何度も引越しして、住居を10回以上変えていますが、

まさかそのとき、30年後もそのカゴを持っているとは思いもしませんでした。

そのカゴを見るたびに、ミヤウチを思い出さざるを得ず、
こうしてブログにまで書くようになるとは、何とも複雑な気持ちです。

ちなみにトップ画像は、ビニ本「KURUMI くるみ」(コンパル出版)からのものです。

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