今回は、私が学生時代に下宿を探したときのお話です。
ビニ本や裏本とまったく関係なく、
またとても長いうえに自己満足な内容に終始していますので、
ご興味のない方は引き返すことをおすすめします。
このブログのほかの記事内でなんどか書いておりますが、
ブログをはじめた理由は、自分の昔の話を文章にして残したいと思ったからでした。
ビニ本や裏本を入口にして、
いろいろと書いていこうとしていたわけですが、
ビニ本や裏本の記事が思いのほかアクセス数が多く、
昔話は後まわしになる傾向がありました。
ときどきは昔の話をはさんでいきたいと思っていたことと、
最近はとくに年齢的な衰えを感じることも多く、
昔話の類いは、頭がしっかりとしているうちに書かねばいけないと思い、
今回の話を書くに至りました。
今後もときどき、
昔話を取り上げていこうと思っていますので、
よろしくお願いいたします。
さて、本題に入ろうと思います。
私は大学の4年間、広島県で過ごしました。
最初の1年半は広島市、次の半年は福山市、
そして次の2年間は東広島市です。
どうして何度も住む場所が変わったのかといいますと、
大学の移転の時期に私の入学が重なったからです。
大学はもともと広島市にありましたが、
手狭になったのか、
東広島市という田園風景が広がる場所に移転する予定になっていました。
総合大学で規模も大きかったので、
全学部が一挙に移転というわけにはいかず、
何年も時間をかけて学部単位で移転が進められていて、
私のいた学部と工学部は、
比較的はやい段階で移転がはじまっていました。
ちなみに1995年に、移転は完了しており、
現在は、医学部と歯学部を除く学部が東広島市にあります。
法学部をもういちど広島市にもどす計画があるようですが、
それはさておき、
当時私が下宿やアパートを探すのは、
大学の学生課から提供される情報を頼っていました。
大学入学を機に、
実家のある高知市から広島市に引っ越すことになったときも、
学生課の情報から下宿をさがし、
また福山市から東広島市に引っ越すことになったときも、
やはり学生課頼みでした。
下宿やアパートの情報提供はアナログです。
大学の校舎内の指定場所に、
何枚かのパネルが置かれていて、
そこに、
下宿やアパートの情報が書かれた紙が何枚も貼られていました。
そのなかから気になる物件をピックアップして、
学生課にいえば、
待機していた業者らしき人が車で案内して物件を見せてくれます。
広島市の下宿を決めたときはひとつしか選んでおらず、
そこに決めましたが、下宿の下見は自分で行きました。
しかし、大学の新校舎は山を切り開いて建てられていましたから、
周辺は山ですし、すこし離れると田畑が広がっています。
目印的なものもなく、移動手段はバスしかなかったため、
自分でいくつも下見するのは大変ですし、
土地勘がありませんから、どこに行けばいいのかわかりません。
話がすこしそれましたが、
私は家賃を優先して3つの下宿をピックアップしました。
そして業者のかたに車で案内をしてもらいました。
ちなみに時期的には1988年の3月頃です。
まずひとつめの物件は、
2階建ての一軒家に複数人の住人が住んでいるというところでした。
台所と風呂トイレは共同です。
私が業者のかたに続いてそこに入ると、
楽し気な話し声が聞こえてきます。
東広島市にある農業系短大の学生たちがすでに住んでいるとのことでした。
男女が2、3人いたのではないかと思います。
いまでいうシェアハウスみたいなものでしょうか。
同じ学校の男女が、
ひとつの一軒家でいっしょに暮らしていることに私は驚愕します。
しかも彼らはびっくりするほど仲が良いように見えましたし、
付き合っている男女もいたのではないでしょうか。
私が業者のかたのあとに続き、
2階の階段をあがり廊下に来たときに、
いきなり男女が部屋から出てきて、
追いかけっこしている場面も見ました。
そんななかを、業者のかたが淡々と物件の説明をしてくれましたが、
私はその物件を選ぶつもりはありませんでした。
今でいうところの陽キャばかりのグループと、
いっしょに暮らす勇気はありません。
今も昔も私は、
自室でおとなしくエロ本を読むのが好きなのです。
そしてふたつめ、ここも最初の一軒家以上に衝撃的でした。
農家の離れが下宿になっていて、部屋がふたつ並んでいました。
扉を開けると土間があり、段差をあがるとそこにまた扉があって、
それを開けると部屋があるつくりでした。ちなみに平屋です。
業者のかたが扉を開けて部屋のなかを見せてくれたのですが、
そこはなんと土間のまま。
どういうことかといいますと、
複数の木の枠で部屋が仕切られていて、
木の枠の下に土が見えています。
「え!これ馬小屋?」と思いましたが、
業者のかたに聞くことはできませんでした。
絶句している私をさらに驚かす業者のかたのひとこと、
「隣には住んでる人がいます」。
土のうえにテント張って住んでるのだろうか、人ではなくて馬かな、
などといろいろな疑問が浮かびましたが、
それも聞くことはできませんでした。
いま思うと、おそらく畳を外したままの状態で、
新しい畳がまだ届いてなかったのだと思います。
しかし、当時の私は今以上に世間知らずでしたので、
そんなことはわかりませんでした。
というわけで、次に行った3件目を私は選び、
卒業までの2年間住んでいました。
ここも農家の離れの平屋で、トイレは専用、台所と風呂は共同です。
とても広くて部屋自体は12畳ありました。
たしか、家賃は2万数千円だったように記憶しています。
大学までは自転車で10分~15分といったところだったでしょうか。
大学からはかなり離れますが、西条駅というJRの駅があり、
その周辺にはいろいろと店もあり、風呂屋もあったかもしれません。
ただし、当時の大学周辺には学生が行くような店は皆無でした。
若い私は、エネルギーを持て余し、
夜に自転車でうろうろするのが日課になっていましたが、
高知市や広島市や福山市のように行く場所もなく、
近くに唯一あった商店の自販機によくコーヒーを買いに行ったことを思い出します。
以上、私の下宿探しのお話でした。
私は大学を卒業後も、
ときに会社の都合で、ときに自分の意思で、
ほかの人よりも比較的何度も引っ越ししていますが、
学生時代に大学の移転にともない引っ越ししたことが、
クセになっていたのではないかといまは思います。
余談ですが、私が通っていた大学は、
全国で2番目に自殺者が多いと、教授から聞かされたことがあります。
ちなみに1位は茨城県にある学園都市にあるT大学とのことでした。
大学周辺にいわゆる学生街らしきものがなく、
学生が孤独に陥りやすいことも理由のひとつだということでした。
ただし、私が在学中はそんな話はひとつもありませんでした。
ところで、現在の大学周辺はとても栄えていて、
スーパーやコンビニ、家電量販店にその他商業施設がたくさんあるようです。
GoogleMapで見ました。
当時の私は真面目に勉強に取り組む学生ではなく、
アルバイトをして得たお金でビニ本や裏本をふくめエロ本とか、
アイドルやヌードモデルの写真集を買っていました。
すべて一日だけの力仕事だったのであと腐れがないのと、
運動にもなるため長期の休みはほぼ毎日アルバイトしていましたし、
広島市だとバイト先に困ることはありませんでした。
しかし東広島市は一日だけの力仕事はまれにしかありません。
そのため、飲食店や紳士服屋、古本屋で働くことになるのですが、
その話はまたの機会に書いてみたいと思います。
ところでトップ画像は、
ビニ本「処女探し」(優美堂)の娘さん。
私の大好きなモデルさんです。
“下宿探し”にからめて、
「処女探し」の後半ページから持ってきました。
同じ娘さんが出演の作品は、以下のものも取り上げています。
ビニ本「MARIKO セクシー・マリコ」(千曲出版社)
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コメント
コメント一覧 (12)
80年代に都内にあった大学が郊外に大きなキャンパスを作って移転と言うことがありました。私の通っていた大学もそういうものの一つで、私より下は皆そのキャンパス通いでしたが、そうでなくて良かったと思いましたね。神保町で本を買ったり、お茶の水でレコードを買ったり、新宿で映画を見たり、酒飲んで楽しんだりとか、そういうことが出来ませんから。
モーリス輪島
がしました
モーリス輪島
がしました
私の弟が入学したのが '87年4月、1学年上の [体育専門学群](筑波大学は 学部を [学群] と呼称します)に、後に '98年W杯に出場した『井原正巳さん 中山雅史さん』が在学。弟は [医学専門学群] の学生に成り 学群近くの『セブンイレブン』に立ち寄った時の事を後日 私に「兄貴、アルバイトで店番をしてたのが、体専(体育専門学群の略称)の1期上の先輩の 井原さんと中山さんで『坊や、こんなヘンピな処まで来る おつかいとは、大変だね』と俺を中学生と勘違いするから『俺、今年から 医専(同じく医学専門学群の略称)に入った者です』と文句言ってしまったよ」と不機嫌気味に言ってました(私は高校生の時 20歳以上に見られる老け顔をしてましたが、弟は 実年齢より5歳程若く見られるガキっぽい顔立ちでした。
スミマセン、下段に続きます。
モーリス輪島
がしました
在学中の弟から聞いた話しでは・・・。
'70年代半ば『茨城県 桜村』の地平線の彼方まで見渡す限りの耕作地帯のド真ん中に 大学の校舎及び研究棟群が立ち並び 大学の敷地も都会の大学以上の広大さ(まるで1つのニュータウン)。他校との最大の違いは、外界とを隔てる壁もフェンスも無かったのです。道路の端に歩道を設け 其の内側の大学敷地に剥き出しで校舎等が建てられてました(オフィス街に建つオフィスビルの様に)。広大な学内移動には自転車が必須。
学内の周辺部の其処彼処に分散する形で鉄筋コンクリート3階建ての『学生宿舎』が唯一の住まい。内装は味気無しで『6畳相当の土足のまま上がる部屋。一隅に鏡付きの洗面台(湯が出ない水道水がそのまま出る蛇口1本だけ)。南向きの窓は有れどベランダは無し。暖房は、海外のホテルで見掛けるオイルヒーター(其れとて夜10時には自動停止)。冷房は無し(個別にエアコンを付け様にも分厚いコンクリートの壁に穴は開けれず)。他に備品は スチール製の事務机と椅子。スチール本棚。昔の病院に有った様なパイプ製の寝台』トイレは、各階の階段脇に在る 校舎内と同じ造りの共同トイレ(洗面スペースの一角に年代物の 全自動洗濯機2台。必ず誰かが使用していて滅多に使えず。洗濯後の物干し台も無く部屋干し)。食事と風呂と買い物は、隣の『共同棟』内に学食同然の食堂と割安値段の銭湯と 文房具から生活雑貨までも扱う売店が(此れ等も夜9時に閉まる)。
スミマセン、下段に続きます。
モーリス輪島
がしました
建学当時、周辺地域に 書店も商店ましてや映画館も無く、学外は見渡す限りの耕作地。お百姓さん達以外は 誰も来る事の無い場所。防犯も気にする必要性は要らない状態でした。夜とも成れば学外は、街灯無しの真っ暗闇で鳥や虫の鳴き声以外は無音の静寂。夜空はプラネタリウムの如き星空(宇宙に放り出された様な錯覚を感じて綺麗と言うよりも恐怖)。コンビニもファミレスも無い時代で学生達の運転免許取得率もマイカー所有も現在程では無く、学外へ出るには 夕方迄しか運行してないバスだけ(30分以上も掛けて常磐線の駅周辺地域迄、出掛けてたそうです)。
遊びたい盛りの男女学生達には、相当な苦痛な生活だったのでしょう。其の為か学内の学生同士での学生結婚が他校と比較に成らない程増え、『夫婦寮』が新築されたのでした。
外界から隔絶された様な状況が変化し始めたキッカケは『EXPO'85 つくば科学博』が開催してからです。道路整備も進展し 学外周辺に学生相手のコンビニ ファミレス 郊外型大型書店 レジャー商業施設 アパート等が続々と建ち 同時に其れ等は学生達のアルバイト先にも成りました。車社会型の商業施設が増えた事は 学生達の運転免許取得率とマイカー保有者が増えて来た影響も有ります。
弟が大学に入ってからは、世はバブル景気に沸き、公立 民間を問わず『研究機関』が移転して来て、人口が急増『桜村』は 町を経ずにイキナリ 市に昇格して『つくば市』に(村役場が2階級特進で市役所に)。然して、学外周辺地域が長閑な[農村]だった頃の意識の状態でノンビリ構えていた大学は、驚愕の事件に巻き込まれてしまった訳です。
スミマセン、次で最後です。
モーリス輪島
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'91年7月の朝、学内の清掃作業をする女性スタッフが 研究棟7階エレベーター前で同大学の『五十嵐 助教授』が死んでいるのを発見。頸部と胸部を鋭利な刃物による刺殺でした。建学以来 初めての重大事件(インド出身の英国系米国人作家『ラシュディ』氏の著書『悪魔の詩』を邦訳した事で 助教授も原作者と同様に 当時のイラン最高位者『ホメイニ』氏から死刑の布告が世界中のイスラム教徒に下され 其れに従った信者の犯行とみられた)。
コメント8番に書いた通り 同大学は、学内と学外を隔てる壁もフェンスも無く、何処からでも学内に出這入り出来る状態。戸締まりも基本緩め(危険物を扱う研究棟や医学専門学群と付属病院の保安体制は万全でした)で校舎 研究棟の出入り口は、常時開放。誰もいない研究室の扉が開けっ放しな事も。
大学周辺地域が、広大な耕作地帯だった頃の農村時代の緩めの防犯意識のままでしたが、人口増加に伴い 周辺道路は人と車の流れも増加。つまり「野良仕事の人以外通る事の無かった周辺道路が 人口増加で通り抜けの道路に変化したのです」此れは『何時でも外から人が入って来れる、又 何時でも外へ出て行ける』訳です。
助教授を殺害したとみられる有力容疑者の『バングラデシュ人の留学生』が事件発覚当日、成田空港から人知れず帰国。此れに当時の学生達は「彼1人の犯行とは考え難い。実行犯を目撃される事無く手引きした共犯者だろう」と考察してました。
2006年に本件は時効と成りましたが、大学と学生達に『防犯意識』を高めるキッカケと「もう大学周囲はド田舎では無いんだ」の認識を持つ事を与えたそうです。
モーリス輪島
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