おとなの妄想くらぶ

2020年06月

くるみ_13

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前回に引き続き、かつて住んでいた下宿の住人の話です。

またしても、どうでもいいような思い出話なのですが、
今回は、私の真下に住んでいた文学部の学生の話です。

名前を仮にヤマダ(さん仮名)としておきます。

私はこの下宿に、2年生の9月まで住んでいて、
その後、同じ広島県の福山市に引っ越すのですが、

ヤマダさんは、私が引っ越すときもまだ住んでおりましたので、
私が入学したときには3年生でなかったかと思います。

下宿の住人は全員が同じ学校の学生ですし、
トイレは共同で使いますから、入居したときに全員に挨拶に行きました。

私と同じく新入生のミヤウチ(仮名)も交えて、
ヤマダさんの部屋で、挨拶がてら、ちょっとした雑談をした記憶があります。

ちなみに下宿に風呂はなく、風呂屋を利用していました。

私が下宿に住み始めたのは4月入学直前の、3月終わりだったと思います。

細かい日程は覚えていませんが、通常なら4月8日に入学式があります。

そしてこの4月8日ですが、後述する理由から月日が特定されるのですが、

私が下宿に帰り、部屋に入ろうとした瞬間に、
ヤマダさんが1階からものすごい勢いで階段を上がってきて、私の部屋に来て一言。
「岡田有希子が死んだ!」

このときの私の驚きをどう説明すればいいでしょうか。

いまだに記憶に残ってますから、衝撃的なことだったのは間違いないのですが、

岡田有希子が死んだことよりも、ヤマダさんが大慌てで私の部屋に駆け込み、
岡田有希子が死んだニュースを伝えてきたことに驚きました。

ちなみに、岡田有希子とは1980年代を代表する女性アイドル歌手です。
アイドル全盛の1984年にデビューしています。

私はもちろん知っていましたし、当時の若者全員が存在は知っていたはずです。

私は、ヤマダさんから教えてもらった後に、
岡田有希子が自殺したというニュースの詳細にも触れ、

その後、
10代の女子たちが後追い自殺することが社会問題にも発展するのですが、

それはさておき、

ヤマダさんの勢いに押されて、自身のショックがかき消されたとでもいうのでしょうか、
ヤマダさんは、そこまで岡田有希子に思い入れがあったのかと驚いてしまいました。

加えて、岡田有希子の自殺は4月8日でしたから、
私が下宿に住み始めて一週間ほどしか経っていません。

つまり、
同じ学校の先輩後輩とはいえ、ヤマダさんと私は、そこまで密な関係性ではありません。
わずか一週間前に初めて会ったわけですから。

ところで、これが逆だったとして、私が岡田有希子死亡のニュースを、
ヤマダさんの部屋に行ってまで伝えるだろうかと考えますと、

私のパーソナリティーの問題も多分にあるとは思いますが、
おそらくそんなことはしないだろうと思います。

ちなみにヤマダさんですが、一般的にはおとなしめなタイプで、
グイグイくるような感じではありませんでしたし、

下宿に住んでいたときには、
例えば、いっしょに飲みに行ったり、食事したり、遊びに行ったりとかは全くなく、
同じところに住んでいる住人という以上の関係性になったことはありませんでした。

現在も、岡田有希子の話が、テレビやラジオなどのメディアで取り上げられることがありますが、
それに私が触れたときは、もれなくこのヤマダ先輩が思い出として付いてきます。

それだけ衝撃的な出来事だったと言えなくもないということです。

岡田有希子の一件の後、
ヤマダさんと情報を交換するような会話したことはなかったように記憶しています。


そのことが余計に、
私の中で、この出来事の記憶を際立たせる働きをしたこともあると思います。

ところでトップ画像は、
またしても、ビニ本「KURUMI くるみ」(コンパル出版)からのものです。

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今回は、私がかつて住んでいた下宿の住人の話です。

裏本やビニ本とは無関係で、単なる私の思い出話です。

私の下宿は、大家さんの敷地のなかにありました。
そのため大家さんの自宅一軒家と共通の門を抜けて、奥にある下宿に入ります。

GoogleMapで確認すると、現在も、大家さんの自宅は存在していましたし、
下宿の建物もまだ存在しているようでした。

ただし、現在も下宿をやっているのかどうかは不明です。

さて、この下宿ですが、1階に2部屋、2階に3部屋ありまして、
私を含めて1階に2人、2階に2人、合計4人の学生が住んでいました。

全員が同じ学校の学生です。

私は2階に住んでいたのですが、私の部屋の隣が空き部屋で、
階段を挟んで、その隣に中部地方から来ている学生が住んでいました。

私と同じ年の入学なので、同級生になります。工学部の学生でした。

名前を仮にミヤウチ(仮名)としておきます。

ところで、下宿の近くにジャスコがありました。現在もイオンとして営業しています。
私は外食が基本だったので、ジャスコで食材を買った記憶がほとんどないのですが、

ミヤウチはジャスコで食材を買い、下宿で調理していたように記憶しています。

あるとき、彼がジャスコのカゴを持ったまま下宿に帰ってきました。
中には、その日買った食材が入っています。

店内で使い、レジで精算する際に返却する買物カゴです。

レジで精算を済ませたあと、そのままの状態で帰ってきたようです。

当然、そのカゴはどうしたという話になりましたが、

「『あれ? お客さん、ちょっと…』とか言われたけど、
『あ、いや、ん~』と言ってそのまま持って帰ってきたがや…」

ミヤウチは少し酔っぱらっているようでした。

そして私に、「これ使う?」と言ってカゴをくれました。
30年前の出来事です。

そのカゴは実はまだ私の家にあります。なぜか捨てられませんでした。

私は、これまで何度も引越しして、住居を10回以上変えていますが、

まさかそのとき、30年後もそのカゴを持っているとは思いもしませんでした。

そのカゴを見るたびに、ミヤウチを思い出さざるを得ず、
こうしてブログにまで書くようになるとは、何とも複雑な気持ちです。

ちなみにトップ画像は、ビニ本「KURUMI くるみ」(コンパル出版)からのものです。

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今回は、広島市内で展開していたチェーン店の書店「SUN BOOK」のお話です。

たいした話があるわけではなくて、単に私の懐かしさを満たすためだけの内容です。

私が広島市南区に居住していた当時、1980年代後半から1990年代はじめにかけてですが、
頻繁に「SUN BOOK」に通っておりました。

特に利用していたのが、2号線沿いの「霞店」です。
広島市南区霞2丁目にありましたが、どうやら2018年ごろに閉店になってるようです。

チェーン店なので大元の会社があるはずですが、
ネットで調べたところ、2018年の暮れに、
「破産手続き開始決定」という情報が出てきましたので、倒産したものと思われます。

現在、私は広島市から遠く離れた土地で暮らしているため、
利用することはありませんでしたが、それにしても残念です。

1980年代後半の話に戻ります。

1986年に、私は広島市南区翠に下宿することになりました。
親元から離れ大学に通うためです。

高知市にいたころから、自転車であちこちの書店や古本屋をめぐるのが好きでしたので、
広島での生活が始まってすぐに、やはり自転車であちこちウロウロしました。

目的は、本屋や、当時全国で出店ラッシュが見られたレンタルビデオ屋とかを探すためです。

とはいえ、広島市も相当に広いです。
闇雲に自転車を走らせても効率的ではありません。

運動になるし、道を覚えるから、それでもいいという気持ちはあったものの、
せっかく出かけるのだから、ひとつくらいは書店を見つけたいという思いはありました。

そのため、電話帳と地図であらかじめ書店の場所を調べて、
それから自転車でウロウロするということをしていました。

しかし「SUN BOOK霞店」は調べて見つけたのではなく、
何となく自転車を走らせて見つけたのだったと記憶しています。

その後、広島市内に点在していた「SUN BOOK」に、
片っ端から自転車を走らせるのですが、

最初の「SUN BOOK」体験が「霞店」でした。
“体験”とか大げさだと思われるかもしれませんが、それだけインパクトがありました。

中に入ると、ほぼエロ一色。いわゆるエロ本はもちろん、アダルトビデオに、
エロテープの類いのものも置いていたように思います。

当時、私は、
これだけの数のアダルト雑誌をいちどに陳列しているお店に入ったことがありませんでした。

正方形に近い形をしている店舗内の広さは、一辺が10メートル以上あったと思います。
ちなみに、ワンフロアでした。

「やっぱり広島は都会だ」と思ったのを覚えています。

それから、頻繁に通うようになるわけですが、
毎回何か購入していたわけではなく、行くだけのことが多かったです。

何時間も粘るほど店内は広くはありませんが、店内でウロウロする時間がとても楽しかったです。

どこの書店もそうですが、
購入したときは、書店の情報が印刷されている袋に入れてくれます。

その袋に「霞店」以外の「SUN BOOK」店舗の情報が載っています。

それを参考にして、
後日、また別の「SUN BOOK」に自転車を走らせるわけです。

そして、実際に行った後、また下宿に戻るのですが、

戻ってから、走ったルートを地図で確認します。

この作業は、何らかの使命感でやっていたり、
仕事につながるからとかいう理由でやっているのではなく、
一連の作業が楽しくて仕方がないという単純な動機からです。

そのため、広島市内の道をあっという間に覚えました。

ところで、「SUN BOOK霞店」から、2号線沿いを西に約500メートルくらい行った先に、
レンタルビデオ店がありました。

たしか「SUN BOOK霞店」を見つけたときと同日に発見したと記憶しています。
広島市内でチェーン展開していた「ポパイ」というお店です。

ネットで検索すると、「メディアステーション ポパイ」というのがヒットして、
確かに広島市南区の2号線沿いに、東雲店と東雲2号店、ふたつの店舗があったようですが、

私の記憶では、住所は広島市南区東雲や東雲本町ではなくて、
広島市南区出汐という地名の場所にあったような気がします。

それに私が2号線沿いの「ポパイ」を初めて利用したのは、
1986年の春から夏ごろだったと記憶しているのですが、

ネット情報では、東雲店と東雲2号店は、
1986年当時には開店していないという情報が出てきました。

ちなみになぜ、最初の利用が1986年の春から夏ごろだったのかというと、
その頃、ビデオデッキを買ったからです。

ネット情報が誤っていることは少なくないのですが、
「メディアステーション ポパイ」と私が見つけたレンタルビデオ店「ポパイ」は、
別物という可能性もあるかもしれません。

というわけで、この話は、また次回以降に続きます。

トップ画像はまたまた、竹下ゆかりですが、
以前に取り上げました、ビニ本「PONNY ポニー」(ドルフィン企画)からのものです。

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今回は、高知市南はりまや町にある書店「いそっぷ館」のお話です。

かなり昔からありますが、現在でも営業中です。

どのくらい昔からあったのかというと、
私が高校に入学する前後にオープンしたような記憶があります。

具体的には、1981年とか1982年あたりです。
なので、40年近く続いていることになります。

本が売れないと叫ばれて久しいですが、
そんななかでここまで長期にわたり営業しているのは物凄いことだと思います。

「いそっぷ館」がオープンしたころ、私は実家のある高知市の東側地区から、
西側地区にある学校へ自転車で通学していました。

その通学路にあったのが「いそっぷ館」です。
通学路といいましても、自転車ですので、私が通る道が通学路となるわけですが、

行きも帰りも、「いそっぷ館」がある十字路をよく利用していました。

今でもそうですが、オープン時からビル全体に「いそっぷ館」という看板が掲げられています。

それを最初に見つけたときは、ビル全体が書店で、
上から下まで全部のフロアに本が陳列されているのかとも思いました。

書店大好きな私は、オープンしたのを見つけた直後に、さっそく店内に入るのですが、

ビル全体が書店というわけではなくて、店舗は1階のみ。

広さもそこまで大きくはありませんでしたし、品揃えも、街の本屋さんという感じでした。

この「いそっぷ館」で記憶に残っているエピソードがあります。

1982年ごろの出来事だったように記憶していますので、
オープンからそんなに経ってなかったように思います。

当時、ロリータ写真集というものが、巷にあふれ始めようとしていたころでした。
18歳未満、特にローティーン以下の少女を被写体にした写真集です。

当然今ならば、存在自体が許されない一発でアウトな代物です。

ところで1980年代当時、陰毛を晒すのは御法度でしたから、
雑誌や写真集などで、大人の女性の股間は、何らかのボカシ処理が施されていました。

しかしロリータ写真は違います。
10歳以下、もしくはせいぜいでローティーンの少女たちですから、
陰毛が生えていない状態です。

ゆえに股間の、いわゆる“ワレメ”は、隠されずにそのままでした。

昔も今もそうですが、
クリエイターの側は、マンコ解禁に肯定的な態度の人たちが少なくありません。
写真でも映像でも、海外では男女の股間を隠さないのが当たり前だからです。

しかし国内においては、ワイセツという理由で今も隠されています。

大人の女性、特に日本人の大人の女性の股間には必ず陰毛があります。

欧米のように、陰毛を剃るカルチャーが普及していないのは当時も今も同じだからです。

そのため、日本でマンコの解禁を実現すると、必ず陰毛が見えるという事態になります。

ただしここでややこしい問題が発生します。

マンコ解禁のはずが、必然的に陰毛も解禁されますので、
マンコの解禁=陰毛の解禁、ということになり、

マンコが解禁されていない現状は、マンコがワイセツだと捉えられているのはもちろんのこと、
陰毛もワイセツと捉えられている。人々は必然的にそういう意識になります。

そのため陰毛自体がワイセツだと歪曲されて捉えられたまま、
1990年代以降の、なし崩し的な陰毛解禁となるわけですが、それはさておき、

陰毛がヒワイならば、陰毛がそもそもない少女の股間はワイセツではない、
つまり隠す必要がない、という認識が浸透していきます。

さらに初期のロリータ写真集は、芸術的なテイストを付加させた雰囲気が、
前面に押し出されていたものも少なくなかったこともあり、
ワイセツ議論の土俵に上がることがありませんでした。

加えて、少女のワレメ及び、そのヌードをワイセツと決めつけてしまうと、
それによって、少女ヌードに発情しているという動機も連動して付いてくるため、
この問題に関して、当局はかなり慎重でした。

そのため、
ロリータ写真集が、「いそっぷ館」のような街の本屋さんの店頭にも置かれ、
少女のワレメが街にあふれるようになります。


私が見た具体的な光景は、
超有名なロリータ写真集『私はまゆ13歳』の「いそっぷ館」での平積みです。

当時は、全国のいたるところで、このような光景が見られました。
なので、平積みを発見しただけなら、特に珍しいことではありませんでした。

ここでやっと、「いそっぷ館」エピソードに入りますが、

中年女性ふたりが、『私はまゆ13歳』を手に取ってパラパラとめくり、
ワレメが映っているページや、年齢にしては豊満なバストが露わになっているヌードページを開き、
雑談しているところに出くわしました。

どんな雑談内容なのか詳しくはわかりませんでしたが、
中年女性ふたりなので、性的好奇心ではないように思われました。


ふたりの表情から察するに、
「これはちょっと問題だ」みたいな雰囲気、つまり写真集に否定的な感じです。

しかし、その後、ロリータ写真集をはじめとするロリータ需要は拡大していき、
『私はまゆ13歳』のモデル・花咲まゆは、当時のメジャー誌である、
『平凡パンチ』にもヌードが掲載されましたし、

同時期にやはりロリータヌードで人気のあった、
“少女M”は花咲まゆよりも、さらにメジャーな存在になっていきました。

そんなロリータブームに終焉が訪れるのは、例の“宮崎勤”の事件があって以降のことです。

ところで、トップ画像はまたしても、
“竹下ゆかり”出演のビニ本「SOMETHING」(八起書房)からのもの。

セミロングの黒髪も、ツルスベな背中も魅力的です。


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今回は、高知市「古本(こっぽん)」(1)に引き続いての2回目です。

前回からかなり期間があいてしまいました。
2回目以降をはやく書きたいと思っていましたが、なかなか取りかかれず、
残尿感がある感じがして居心地が悪かったです。

というわけでさっそく始めようと思いますが、

古本屋「古本(こっぽん)」の話は、最初の回で書いている以上のことはありませんので、
「古本(こっぽん)」があった商店街について書いていきます。

裏本やビニ本とはまったく無関係な上に、古本屋とも関係がなく、
単に私の記憶をたどるだけの話ですので、ほとんど意味がない話が続きます。

ただ私にとって懐かしいというだけの無駄話です。

さて、「古本(こっぽん)」があった商店街ですが、
日の出町と弥生町の境目にありました。
東西に走っている道に面していくつもの店が存在していた商店街です。

現在残っているのは弁当屋の「ふれんど」くらいですが、
全盛期といいますか、昭和40年代から50年代にかけては、かなり賑わっていました。

今の地球33番地通りは、一方通行だったかどうか覚えていませんが、
とても狭い道でした。「地球33番地通り」という名称も付いていません。

また、一文橋はありましたが、架け替える前の橋でして、やはり狭く、
車が2台ギリギリ通過できるくらいの道だったように覚えています。

ちなみに、現在の「ふれんど」の場所に何があったのかは覚えていませんが、
その向かい側に「鳥吉」という持ち帰り専門の焼鳥屋がありまして、
その隣(西側)に、名前はわかりませんが、総菜屋がありました。

この総菜屋は、その後、現在の「ふれんど」の隣に場所を変えてしばらく営業していましたが、
そのうちなくなり、その後で、また別の鶏肉専門店がオープンしました。

しかし、今は、その鶏肉専門店も閉店しています。

ところで、「鳥吉」は現在も不定期で営業していますが、
場所は昭和小学校の北側に移動しています。

昭和40年代、50年代の話に戻りますが、
「鳥吉」の隣に総菜屋があって、
その隣(西側)に、商店街には似つかわしくない鉄工所みたいなものがありました。

そしてさらに西側には何があったのか、正確には覚えていませんが、
老夫婦がやっている食堂があったことだけは覚えています。

その向かいが、今でもやっているのかどうかは不明ですが、
看板は残っている「岩井」スーパーがありました。

私が小学生の頃、この「岩井」にはしょっちゅう行っていました。
駄菓子も売ってまして、当時話題の「仮面ライダースナック」などを、
買っていたように記憶しています。

また子供が喜びそうなオモチャの類いも売っていたように覚えています。

そして、「岩井」の隣(東側)ですが、「片岡写真館」という写真屋がありました。

その隣(東側)に、確か「日の出」という理髪店がありまして、
何度か散髪しに行ったことがあります。

さらにその隣(東側)には、「日の出寿司」という寿司屋がありましたが、
「日の出寿司」は私が小学校の頃に、場所を引っ越しています。

たしか、宝永町あたりで現在も営業しているのではないでしょうか。

「岩井」「総菜屋」「鳥吉」あたりは、当時、母親に連れられてよく行きました。

ちなみに書店街の名前ですが、
「日の出寿司」「日の出」という理容店など、
日の出という名前がついていたお店があったことを考えると、
日の出商店街という名称だったと思いますが、定かではありません。

この商店街は、地球33番地通りを西に越えて、現在の「フジ桜井店」まで続いていました。
地名でいうと、宝永町です。

宝永町、弥生町、日の出町などの住民は、この商店街を利用していました。

現在の「フジ桜井店」のさらに西側に行くと、
菜園場商店街という、より賑わっている商店街がありましたが、
主婦が徒歩で行くとなると、そこそこ大変な距離です。

なのでうちの母親は自転車で行っていました。

しかし今は、その菜園場商店街も、
数店舗が営業しているのみで、
当時の賑わいはありません。

またまたかなり長くなってしまいました。

今回は、このへんで終わりますが、
また思い出したときに書いていこうと思います。

ただし、そのときには、
「日の出商店街」とか「菜園場商店街」とかのタイトルで書こうと思います。

ところで、トップ画像はまたしても、
“竹下ゆかり”出演のビニ本「SOMETHING」(八起書房)からのものです。

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